PLAZA INTERVIEW

vol.034「音楽も言葉も表現し伝えることは同じ」

クラシックからポップス、ジャズ、フォークロック、電子音楽など、古今東西のあらゆるジャンルの音楽を作・編曲できる音楽家として、高い評価を受ける菅野よう子さん。大学時代、たまたま声をかけられて参加したバンド「てつ100%」でキーボードを担当してコンクールで優勝。4枚のアルバムをリリース後にバンドが解散したあとは、ゲーム音楽を担当することで作編曲家として認知され、アニメやCM音楽制作、さらには、SMAPや今井美樹などへの楽曲提供や音楽プロデュースへと活動の場を広げてきました。その一方、「言葉を紡いだり写真を撮ったりするのも音楽と同じ表現」と語り、作詞やボーカルも手がけるなど、活躍の範囲は限度がありません。創ったCM曲は1000本以上と、誰もがどこかで耳にした曲を作編曲してきた菅野よう子さんの才能の神髄に、松武秀樹CPRA運営委員が迫りました。
(2011年10月04日公開)

Profile

作曲・編曲家 菅野よう子さん
宮城県生まれ。幼少時からその音楽的才能を高く評価され、大学在学中「てつ100%」のキーボード担当としてデビュー。歴史シミュレーションゲーム『信長の野望シリーズ』で作編曲家として知られ、アニメやCM音楽ジャンルに活動の場を広げ、坂本真綾などの音楽プロデュースも手がけてきた。CM音楽分野では98年に「ビタミンウォーター」で、三木鶏郎広告音楽賞を受賞。作詞やボーカル、ライブのプロデュースなど、多方面でその才能を発揮している。

ライブで観客と触れ合うことで

034_pho01.jpg ―― 幼少時代から、コンクールがあるたびに賞をとっていたとか。
最初はたぶん、年齢が一番小さかったからそれだけで賞をもらえたんです。中学生ぐらいになると、県の作曲コンクールで毎年1番になっても、あまりに当然すぎると誰も喜んでくれず、「また菅野か」と無反応。とても居心地が悪く、賞をもらうことは複雑な気持ちでした。あまり嬉しかった覚えはありません。

―― そのころ、コンクールの審査をされていた中に、亡くなられた芥川也寸志先生がいらっしゃったんですね。芥川先生にはいろいろサジェスチョンをされましたか。
印象に残ってるのは、「あなたはこの場にいてはいけない」という言葉です。大人が望む決まった型に私が入れられそうになっている、そこに居てはいけないということを芥川先生はおっしゃったんだと思います。「どうも息苦しかったのはそういうことか」と思って、それからもう、人に教えてもらうことを辞めました。

―― プロとしてのデビューのきっかけは?
「てつ100%」というバンドがコンテストに出るとき、キーボードがいないというので、前の日に練習して出たら優勝しちゃったんです。優勝するとレコードが出せるというのが賞品で、私はバンド活動には全然興味なかったんですけど、なんか、そこからずるずると(笑)。

―― ライブはかなりやられたんですよね。
はい。ライブをやってみたら気持ちよくなっちゃったんです。子どもの時は演奏しても嫌な思い出ばかりだったんですけど、てつ100%では、お客さんが音をダイレクトに喜んでくれる。そこから目覚めたっていう感じです(笑)。

パフォーマンスとアレンジと

034_pho02.jpg ―― その後、ゲームやアニメ、CMの音楽など、いろいろと活躍されていますが、作曲やアレンジはまた違う分野ですよね。
小さい時から、ブラスバンドの曲で良いのがなければ自分でアレンジしたり、創作ダンスの曲を自分が踊りたいように創ったりしていたので、アレンジも作曲も特別という感覚は、私にはないんです。

―― ミュージシャンを呼んで曲を創ると、ミュージシャンて言うこと聞かないでしょ?
私はどちらかというと、言う通りにしてくれない人が好きなんです。「おお、そう来たか。じゃあこうしよう」と、一人では予想できない発展こそが楽しい。想像の範囲のものをやってもらうだけなら、わざわざ呼ばないで一人でやります。

―― ゲーム、アニメ、CMといろいろな分野の作品がありますが、ご自分で印象に残っている曲はありますか?
私自身が「この曲はいい」というのは特にないです。むしろ、地味な存在の曲でも「すごく好き」と言ってもらえたり、「あの曲を聞いて、生きててよかったと思った」と言ってもらえたり、自分では思ってもみなかった聴かれ方、楽しみ方、使われ方をしていると知ることが、すごく嬉しいです。

―― 作曲やアレンジをお一人でやってると、煮詰まった時などは大変ですよね。
CMの仕事を始めた当初、自覚的には一番手抜きして、難しいことを考えずに創った曲を、「これが一番いい」と言われたことがあったんです。煮詰まって、頭で考えひねり出したものは響かないんだと、そこで学びました。だから、煮詰まったときはそもそも作りません。打ち合わせの理屈を音に落とし込もうとしてもダメで、ポカーンとして創ったものが一番届きます。

―― なるほど。
人が考えて言葉にすることなんて、物事のごくごく一部ですよね。たとえば、化粧品で、きれいだとか新商品だとかターゲットは30歳だとかしっとりしたシズル感とか言っても、雑すぎて、それですくい取れることはあまりない。ボトルを持った時の感覚、匂い、打ち合わせの場にいるスタッフの顔ぶれ、そういういろんなものを、丸ごと自分の中に取り込んで創れるように、打ち合わせの時はぼんやりしてるようにしています。煮詰まるというのは私にとって、相反する意見とか、自分のこうしたい意図とか、余計な神経回路を通ってる状態。そのスイッチは努めて切っています。

作詞もボーカルも「言葉」も同じ

034_pho03.jpg ―― 小さい頃はクラシックから音楽を始められたわけですが、好きなジャンルは何ですか。
よく聞かれるんですけど、特にないんです。家で音楽を聴くっていう文化がなく、ジャンルは詳しくありません。一応、こんな商売してるから新しい音も聴かなきゃだめだと思ってラジオを買ってみたんですけど、習慣がないから、存在を忘れてる。たとえばクラシック曲を作ろうと思って作っているのではなく、空を飛ぶのをイメージしたらオーケストラが頭で鳴った、という感じ。ジャンルってなにによって分けられるのか、よくわからない。

―― 作曲や演奏以外に、作詞とボーカリストとしても活躍されていますね。これって、ちょっと、違う感覚かなと思うんですけど。
子どものころは、小説家になりたいと思っていました。ものを書くのも、写真や作曲、歌詞、表現するという点では同じだと感じています。

―― ところで、作詞やボーカルのときは、Gabriela Robinという名前を使われていますが...。
初めてオーケストラの録音をさせていただいたのがイスラエルだったんですけど、その時イスラエルの首相がラビン首相だったという、それだけのことなんですが(笑)。

大震災で被災した故郷を思い

034_pho04.jpg ―― 宮城県のご出身で、今回の大震災では大変心を痛められると思いますが、できましたら、被災された方にコメントをいただけるとありがたいのですが。
そうですね。自分が、親に隠れてデートをしたような海辺が全部流されちゃったりして、言葉を失うんですけれど、今あえていうなら、自分が幸せであることを恥じないようにしたいです。それと、何かお役に立てることがあったら、私は元気でいますので、ぜひ声をかけてください。

―― 最後に、今後の活動のご予定を教えていただけますか。
相変わらずアニメをやったり広告をやったり映画をやったりしますが、人前で弾くことに結構喜びを見出しているので、そういう機会があったらいいなと思ってはいます。

―― ということは、ライブを?
やりたいですね。レコードだと何か薄くなったものがコピーされていくような気がするんですが、ライブだと、聞いてる人のひとりひとりの気持ちってコピーできないですよね。そういう、人と人とのコミュニケーションが音楽の力かなと思っていて、そういったプリミティブなところを忘れたくないと思っています。

―― 素晴らしい。ぜひライブもやっていただきたいと思います。我われも実演家の集まりですので、やはり演奏するということが一番アピールする方向だと思っています。
そうですよね。

―― 応援していますので、ぜひがんばってください。
ありがとうございます。

―― 今日はどうも、ありがとうございました。

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