PLAZA INTERVIEW

vol.036「職業はダイアモンド✡ユカイです」

ワイルドでデンジャラスなイメージも魅力だったロックン・ロール・バンド、レッド・ウォーリアーズ。そのヴォーカリストのダイアモンド✡ユカイさんは、バンド解散後はソロ・シンガーとしても活躍。しかし、近年はカッコいいだけでなく、楽しくおもしろい人としても人気急上昇中。50歳を迎えてますます光り輝くダイアモンド✡ユカイさんに人気の秘密、音楽に対する思いを、CPRA法制広報委員会の松武秀樹副委員長を相手に、熱く、そして楽しく語っていただきました。
(2012年03月14日公開)

Profile

ダイアモンド✡ユカイさん
1962年東京生まれ。芸名はあだ名の「愉快」に、輝くイメージのダイアモンドと✡マークをつけたもの。86年、ロックン・ロール・バンド"レッド・ウォーリアーズ"のヴォカーリストとしてデビュー。89年の解散後はさまざまなユニットやバンドのほか、ソロ・シンガーとしても活躍。近年ではタレント、エッセイスト、ブロガーとしても人気を博している。ミュージシャンとしては、ソロ活動のほか、再結成レッド・ウォーリアーズでも活躍中。現在、栃木県佐野市在住。

ロックン・ロールは、俺にとって特別なサムシング

036_pho05.jpg ――ユカイさんがロックに目覚めたそもそものきっかけってなんだったんでしょう?
俺はもともとスポーツ少年で、野球やサッカーに夢中な子供だったんですよ。音楽にはそれほど関心がなかった。でも、あるとき骨折をしちゃって、運動ができなくなっちゃった。もうなにもすることがないわけです。そんなある日、友達が「これでも聴きなよ」と貸してくれたのがビートルズのレコードだったんですね。

――最初はビートルズですか。
そうなんです。初期のビートルズを聴いて、はじめてロックや音楽に目覚めたんですね。アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」に収録されている「ツイスト&シャウト」を聴いて、ああ、こんなにシャウトする音楽がこの世にあったんだって感動したんです。そうやって初期のビートルズで音楽に目覚めて、当然、ビートルズを聴き進めていくじゃないですか。中期から後期に進むとビートルズはたんにポップなだけじゃない音楽的な進化も見せてきて、自分の聴く音楽の幅もどんどん拡がっていったんです。

――友達に感謝ですね。
本当に。それからハードなものも聴くようになり、当時現在進行形だったキッスやエアロスミスなんかも好きになっていったんですね。あと、ビートルズの影響でその後にすごく役に立ったのは、レコーディング技術の大切さです。同時期のローリング・ストーンズのレコードとくらべてもビートルズのレコーディング技術はすごかったじゃないですか。これは自分もプロになってレコーディングするようになってからなおさらよくわかったんですが、当時のビートルズやビートルズが録音したアビーロード・スタジオのエンジニアの創意工夫って本当にすごいですね。
当時のエンジニアだったジェフ・エメリックが書いた『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』という本を読みましたが、こんなすごいことをやっていたんだと目からウロコでした。

――本当にそうですね。さて、そんなユカイさんはバンド、レッド・ウォーリアーズとしてデビューすることになるんですが、レッド・ウォーリアーズに参加したきっかけは?
もともとは、アマチュアの頃に(レッド・ウォーリアーズのメンバーの)SHAKE(シャケ)こと木暮武彦くんとべつのバンドを組んだことがあるんです。それが解散した後、彼はレベッカのギタリストでデビューするんですが、やっぱりロックン・ロールをやりたいと思ったそうで、まだアマチュアだった俺に声をかけてロックン・ロール・バンドをやろうと。俺も、よしじゃあやろうって結成したのがレッド・ウォーリアーズだったんです。

――最初に「ロックン・ロールをやりたい!」っていう強い気持ちがあったんですね。
なんというか、ロックン・ロールって、俺にとって特別ななにかなんですよ。もちろん、ポップスにもすごくクリエイティヴィティがあるんですけど、ロックン・ロールの特別な魅力に俺は惹かれるんですね。ビートルズから始まり、ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、T・レックス...。次々に好きなバンドが増えていって、でもどれも根底にはロックン・ロールの魂があるアーティストが好きで、いわば俺の根っ子みたいなものなんです。ストーンズみたいな不良っぽさとか、ファッションにも強い憧れがあって、「ああいうのを自分たちでもオリジナルでやってみたいよな」というのがレッド・ウォーリアーズの始まりだったんですね。当時は、ロックも一回りして、対極にあるYMOなんかも一世を風靡はしましたが(笑)。

――そうですね(笑)。
俺は当時YMO否定派だったんですけど、いま観ると音楽もファッションも斬新で、これはこれでいいな、ある意味ロックだなと。で、おもしろいのが、当時YMO否定派であった俺たちでさえ、レコーディングの現場ではヘッドフォンでドンカマを聴きながらレコーディングしていたじゃないですか。80年代はそれが当たり前でYMO否定派であっても機械のリズムに頼って音楽を作ってた。まだテクノロジーの途中段階だったんですね。最近雑誌を読んだら、YMOのリーダーである細野晴臣さん自身が「機械のビートじゃなく、人間の肉体の鼓動、心臓の音に合わせてやる音楽がロックだ」とおっしゃってて、すごくうれしかったですね。やっぱりわかってるなあって。

テクノロジーの進化とともに、生活はシンプルになっていく

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――人気者だったレッド・ウォーリアーズは89年に一度解散しましたが、96年に復活して、現在まで継続的に活動してます。
やっぱり、ティーンエイジャーのときに結成した、体験したバンドって特別なんですよね。大人になってから作ったバンドとは、作ったときの意識は同じようでいて、やっぱり全然ちがうんです。

――10代の頃のような友達は人生で二度と作れないっていう映画の名セリフもありますが。
そう、友達の域を超してますね。決して仲よくべったりっていう感じじゃないです。ソウルブラザーというのか、どうしても一緒に音楽をやるならこいつとってなっちゃう。俺の本当の意味でバンドメンバーって言えるのはレッド・ウォーリアーズのメンバーだけなんです。青春時代を一緒に過ごし、同じようなものを見聞きして、それがいまでも根底の部分で通じ合っているみたいな。だから、バンドやってて、仲が悪くなったりもするのだけど、そいつとじゃなきゃ出せないサムシングがあるんですよね。

――非常によくわかります。ここでちょっと堅い話になるのですが、最近は音楽の楽しみ方が多種多様になってきて、CDは買わずにインターネットでの配信や動画サービスで音楽に触れる人も多くなってますよね。その一方で夏フェスなどライヴの現場に生を求めて多くの人が集まってくる。今後、リスナーの音楽体験って、どう変化していくと思われます?
本当にいろいろあってびっくりですよね。ここ何年かで音楽との接し方がどんどん手軽になってきたのは感じてます。テクノロジーはどんどん進化して、あれだけ一生懸命にレコーディングした作品が、こんなちっちゃい機械の中に全部入って持ち歩きができちゃって、「なんだこりゃ」的な(笑)。ただ、一方でレコーディングする側もテクノロジーの進化の恩恵は受けていて、むかしだったら大変な思いをして作らなきゃいけなかったサラウンド効果がスイッチひとつでできちゃったり。映画もそうですよね。DVDどころか、ブルーレイとか3Dとか、本当にいろんなものが出てきた。作るほうも楽しむほうもなんでもできちゃう。

――先ほどのビートルズの話じゃないですけど、先人が大変な思いで工夫した「いい音を作り出す環境」がいまでは誰でもできるようになって、誰でも手軽にそれを楽しめる時代ですよね。
なんでもできますよね。ただ、自分個人の話で言うと、俺はだからこそなのかな。どんどんシンプルになっていってますね。作る音楽もそうだし、生活自体もシンプルになってきている。

――近年は東京から栃木県佐野市に住まいを移されましたが、それも関係しています?
そうですね。俺はもともと東京の生まれで、その後に埼玉の大宮で育ったので、いわばずっと都会で暮らしていたわけです。2010年に娘が生まれて、ファミリーというものを実感したんです。そのときに、娘には、ちょっと都会の喧騒を離れた、青空の大きい広い土地で育って欲しいなって。

――娘さんの環境を考えたんですね。
その翌年の11年には双子のボーイズも誕生したんで、よかったと思ってます。東京での仕事にはクルマで通ってますが、そんなに遠くないし、カーステレオで音楽も聴けるし、いい選択だったな、と。東京は東京で便利で楽しいところなんですが、子供達にはそれこそシンプルな佐野でのびのび育ってほしいと思ってます。

自分でも気付かなかった新しい側面を見つけました

036_pho03.jpg ――ところで、ユカイさんは最近ではバラエティ番組などでも人気者ですよね。最初はレッド・ウォーリアーズのロックン・ローラーのイメージが強かったのでびっくりしたんですが、どういうきっかけだったんでしょう?
きっかけは事務所というか、マネージャーにだまされたんですね(笑)。ぼくはレッド・ウォーリアーズ時代に役者にも挑戦していて、アメリカ映画に出たりもしていたんですよ。「ユカイさん、役者としてもイケてるよ!」みたいに褒められることもあって、調子に乗ってた(笑)。で、あるときにマネージャーから「役者をやりませんか?」「ああ、やるよ」「仕事入りました!」「お、早いね」って芝居やる気満々でテレビ局に行ったら、番組が「踊る!さんま御殿」だったんですよ!(笑)

――(笑)
あれ、これ、なにかの間違い? みたいな感じだったんですけど、来ちゃったからにはっていろいろしゃべって帰って来たら、その後、そういう役者じゃないオファーがいっぱい来ちゃって。ま、これも演技力ってことで(笑)、今日に至ってます。

――それはやはり、ご自身の中にコメディアン的な要素が実はあったということなんでしょうか。
あったのかもしれないですね。もともと大正生まれの親父の影響でチャップリンとかダニー・ケイとか好きでしたし、子供の頃からクレイジーキャッツ、ザ・ドリフターズ、コント55号、みんな好きだったんですよね。

――けっこう、音楽の人はお笑いも好きですよね。YMOの3人はみな林家三平さんが好きで、よくモノマネもしていたし。
本当ですか!(笑)

――ユカイさんの場合、ブログもとてもおもしろいじゃないですか。やはりそういう素養があったんですね。
ブログは、......ちょっと複雑ですね(笑)。俺はそもそもブログってなんなのかわからないままに始めたんですよ。みんなが「これからはブログの時代だ!」っていうから、じゃあやろうか、と。でもなんだろうって調べたら、日記みたいなものらしい。日記ならできるなって始めたんですね。ロックン・ローラーの日常を書けばいいのだろうと。で、ほら、日常って言ってもけっこう腹が立つことがあったりするじゃないですか。夫婦の日常とかなるとなおさら。ロックン・ローラーも、これからは育児をしなきゃ。でもちょっと妻の考えはおかしいんじゃないか。とか(笑)。そういう怒りを日々綴っていったら、なぜか俺じゃなくて妻のファンが増えちゃった(笑)。

――(笑)
なぜか妻のことを罵倒すればするほど、妻のファンが増える。妻は一般人なので名前や写真は出さないのですが、あるとき家族でアミューズメント・パークに行って、ショーを見たんですね。人がいっぱいだから周りのお父さんはみな子供を肩車して見せてて、俺もそうしようと思っていたところに、妻が「早く肩車してあげてくださいよ」なんて言うんですよ。今しようと思ってたのでむっとして「うるせーよ、ばかやろう!」ってつい言ったら、周りの人がぱっと振り向いて、どうやら気付かれちゃったみたい。うわ、プライベートなのになあって内心思っていたら、振り向いたうちのひとりの奥さんがつかつかってこっちにやってきて、「がんばってください!」って、妻に握手を求めるんですよ、俺じゃなく。俺のほうなんかまったく見向きもせずに! ひどいな、これ屈辱だなって、もういまやそんな状態ですよ。

――(笑)そんな多彩な活動を続けるユカイさんの職業って、ひとつ表現するならなにになるんでしょう?
難しいですね。あえて言えば職業「ダイアモンド✡ユカイ」ですってことになりますかね。いろんなことをやっても、中身はすべてダイアモンド✡ユカイなので。ま、いろいろ大変な職業ですけれども(笑)。

3.11~自分にできることは、魂を込めた歌を歌うことだと考えました

036_pho02.jpg ――そして、もうすぐ1年が経ちますけれど、そんな職業「ダイアモンド✡ユカイ」さんの東日本大震災チャリティー・ソング「魂の詩(こころのうた)」は非常に印象的でした。
震災の当日は、たまたま佐野ブランド大使というものに任命されての任命式の前日だったんです。佐野は震源地とも近いので大変な揺れで、任命式は延びてしまったんですが、うちの家もテレビやインターネットが使えなくなって、ラジオだけで情報を得ていたんですが、東北の被害の大きさがわかってきていても立ってもいられなくなった。これはちょっとなにかしないといけないと思ったんです。せっかく佐野ブランド大使というものに任命してもらったんだし、佐野で募金活動をまずしよう、と。

――なるほど。
で、募金活動をしてたくさんの人にも協力してもらってたんですが、「待てよ。こういう募金活動もいいけど、自分にできることってやっぱり歌だよな」って思い始めた。なにか、被災地のためになるような歌ができないかな、と。募金活動をやっているときに、ひとつひとつは小さな善意で小さな力かもしれないけど、それが集まると大きな力(愛)になるぞって感じていたので、それをテーマに詞を作りました。

――たくさんの感動を与えた歌だと思うんですが、反響っていかがでした?
被災地に行ってそこでギター1本で歌うこともありました。聴きながら泣いている人も多くて、言葉じゃなくて、なんというか気持ちが伝わってきましたね。タイトルは「魂」と書いて「こころ」っていう当て字にしたんですけど、魂も歌も目に見えないものじゃないですか。手に掴めもしない。でも、確実な「なにか」がその中にはある。歌に魂を込めて、みんなに「なにか」を感じ取ってもらって、それで少しでも力になれたらいいなと思って作った歌です。

――ありがとうございます。最後になりますが、アーティストであるユカイさんにとって、音楽事業者協会や、日本芸能実演家団体協議会、CPRAなど、アーティスト・プロダクションの活動を支援する団体の存在はどのようなものでしょう?
俺はシンガーとかタレントとかいろいろやってて器用そうに見えるかもしれませんが、実は裏でいろいろな人が支えてくれているから表でがんばれるんですよね。自分の不得意なところも一生懸命に考える役割の人がいてくれるというのは本当に大きい。若い頃はなかなかそれに気付けなくて「俺がスターだから何でもできる」みたいに思いがち。でもそんなことなくて、俺が歌のことだけを真剣に考えていられるのは、それ以外のアーティストの権利やいろんなものを守ってくれてる人がいるから。けっきょくは、エンターテインメントはひとりじゃできないんですよ。いろんな役割の人がそれぞれ自分の持ち場でがんばっているからできる。ア ーティストも裏方もどっちがエライとかじゃなくて、お互いを敬って、ありがとうという気持ちでやっていくのが当たり前だと思います。今度、俺もいよいよ50歳を迎えて、50歳記念ライヴ「芸獣ロック」というコンサートをやるんですけど、今後もロックン・ロールとライヴは、俺のライフワーク、いやライヴワークかな(笑)、なのでこれからもいろんな人のお世話になって活動していくと思います。よろしくお願いします。

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