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民間放送局とテレビ放送の誕生-そして実演家の権利の発展

企画部広報課 君塚陽介

テレビ放送の誕生

vol78-2.png図2:高柳式テレビの復元模型

 テレビ放送技術の誕生は、およそ1870年代以降の電話、蓄音機、映画、ラジオなどと続いてきたメディア技術の変化の一部、しかも、それらを集大成した変化とも言われている※5。テレビ放送は、電話やラジオのように、遠くにあるものを伝えるという側面と、蓄音機や映画のように記録するという側面との両方を含んだ形式と言えるのだろう。
 わが国でも、戦前からテレビ放送技術の研究開発は続けられていた。高柳健次郎氏は、1926(大正15)年12月25日、静岡県の浜松高等工業学校(のちの静岡大学工学部)の研究室にて、片仮名の「イ」の文字をブラウン管に映し出す実験に成功している(図2)。高柳氏は、後に「日本のテレビの父」とも言われ、その後のテレビ放送の実用化に大きく貢献している。戦後、テレビ技術の研究開発が解禁されると、様々なテレビ技術の研究開発や公開実験が再開される。

vol78-3.png図3:地上系民放運用社数の推移
vol78-4.png図4:テレビとラジオ収入の推移

 このような中で、テレビ放送の事業化に熱心だったのが、読売新聞社だった。1951(昭和26)年元旦の紙面に「テレヴィ実験放送開始 都内に常設受像機、地方も巡回」との見出しを掲載する。さらには、日本全土に送信所や中継施設を設置し、テレビ放送にとどまらず、FM、ファクシミリなどを含むマイクロウェーブによる全国通信網を構築する構想(いわゆる「正力構想」※6)を発表する。この構想は、わが国の通信手段が民営企業に独占されるとの懸念から、国会でも取り上げられ、「民営のマイクロ構想を非」とする趣旨の決議も行われた。この構想は実現されなかったものの、1952(昭和27)年に株式会社として設立した「日本テレビ放送網」と、社名に「網」の一字が入っているのは、全国通信網を建設しようとしたことによる※7。
 このような動きに遅れまいと、戦前からテレビ放送の研究開発を行っていたNHKも、テレビ放送開始に向けて動き始め、民間放送局とNHKとの間で、先陣争いが繰り広げられる。1952(昭和27)年7月31日、世間の注目を集める中、わが国最初のテレビ放送予備免許は、日本テレビに与えられる。しかしながら、アメリカに発注していた送信設備の到着が遅れたため、1953(昭和28)年2月1日、NHKが、わが国最初のテレビ放送を開始した。テレビ放送開始当初、平均的なサラリーマンの手取りが1万5~6,000円の時代に、テレビ受像機は、20万円程度した。そこで、日本テレビは、積極的に街頭テレビを設置した。とりわけプロレスやボクシングの中継には、街頭テレビの前に黒山の人だかりができ、テレビ放送の広告価値を認識させることに、ひと役買ったのである。
 民間テレビ放送は、次々と開局し、全国に広がっていく(図3)。やがて、1959(昭和34)年度には、テレビ放送の収入が、ラジオ放送の収入を上回ることになる(図4)。1960(昭和35)年9月10日には、東京と大阪で、カラーテレビの本放送が始まり、1960年代はテレビ放送の時代を迎えることになる。

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