SANZUI vol.08_2015 autumn

ロングインタビュー 渡辺貞夫

Photo / Ko Hosokawa   Text / Kazune Hayata

終戦後、明るい音楽が流れ夢中で聴いた。
2年間だけのつもりが、
東京で音楽をやっていくと決めた。

飛び切りの笑顔とエネルギーに満ち溢れた人だ。世界中で展開されている躍動的な音楽は、その優しげな笑顔と共に聴く者をいつも喜びで満たしてくれる。近年では、そうした精力的な演奏活動に加えて、次世代の育成にも積極的に取り組んでいる。82歳になった今も第一線で活躍し続けるアルト・サックス奏者、渡辺貞夫。その音楽にかける思いとパワーはどこから来るのだろう。

宇都宮の小さな楽器屋に1本だけポツンと置いてあった中古のクラリネット

――どのようにしてジャズに出会われたのでしょうか?

僕は13歳の時に終戦を迎えましたが、それまで日本に流れていたのは流行歌、唱歌、軍歌のようなものばかり。華やかな音楽はまったくありませんでした。戦争が終わると同時にアメリカのポピュラー音楽、ハワイアン、ラテン、ジャズのような明るい音楽が流れるようになって、それらを夢中になって聴き始めました。そんな時にビング・クロスビーが主演する「ブルースの誕生」という映画に出会ったんです。その中に10歳くらいの少年がカッコいいクラリネット・ソロを演奏する印象的なシーンがありましてね。その少年に憧れたのがきっかけです。

――すぐに演奏されるようになったのでしょうか?

15歳の時に宇都宮の小さな楽器屋に1本だけポツンと置いてある中古のクラリネットにたまたま出会いまして。それが3000円という値段だったので、これなら買ってもらえるかもしれないと思って親父にしつこくねだりました。ボディがドイツで、ベルがアメリカ、樽とマウスピースが日本製という継ぎはぎだらけのひどいクラリネットでしたね。昔、無声映画のバックでクラリネットを吹いていたという近所の駄菓子屋の親父さんに1回10円ずつ払って店先で3日間教えてもらいました。それが始まりです。その数か月後には宇都宮のダンスホールなどで演奏し始めていました。

――それはまたずいぶん早いスタートで。

そうですね。当時は、楽器を持っていれば仕事がもらえるような時代でしたから。そうこうするうちに鬼怒川のホテルで進駐軍向けに演奏する仕事が入りました。ところが当時、米軍が関係する場所で演奏するには特別調達庁というところが発行するライセンスを持っていないと駄目だったんです。オーディションを受けて、その腕前によってスペシャルAからDまでランクが決められるんですが、僕達のバンドは最初、下手過ぎてランクが付けられないと言われましてね(笑)。もうすでに仕事が入っているからと言って頼み込んだら、特別にDの下のEクラスというライセンスをもらいました。高校を卒業した2週間後には上京してアルト・サックスも吹いていました。親父には2年間くれと。2年間だけ東京で好きなことをやらせてくれ。そうしたら帰って来て親父のやっている電気屋を継ぐからって。

――それが2年では済まなくなったわけですね。

2年のはずがこんなに長くなっちゃいました(笑)。19歳の時に先輩のピアニストである穐吉敏子さんに声を掛けていただき、ミュージシャンでやっていくという決心を固めました。僕は正式な音楽教育は受けていませんでしたから、ミュージシャンとして生きていけるかどうか自信を持つことができなかったんです。その僕に、穐吉さんが新しいバンドを作るので入らないかと声を掛けてくれましてね。本当に飛び上がるほど嬉しかったです。当時、最も前衛的な音楽であるビバップ・スタイルのジャズをしっかり演奏していたのは守安祥太郎さんと穐吉さんのふたりだけでしたから。その穐吉さんに認めてもらえたということで、これなら音楽でやっていけるんじゃないかと。

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