PLAZA INTERVIEW

vol.043「鼓一つで飛び込み、遊ぶ」

力強く天にも届くような澄み切った音色の鼓を打つ堅田喜三久さん。邦楽の枠を遙かに超え、音楽のさまざまなジャンルとコラボレーションし、お囃子の魅力や可能性を追求してきました。そしてますます精力的に演奏に取り組み、海外でも積極的に公演し、鼓や太鼓の心に響く魅力を伝え絶賛されています。そんな堅田喜三久さんに修業時代のことから演奏、後継者育成まで、鼓を前にしてお話を伺いました。聞き手は松武秀樹CPRA法制広報委員会副委員長。
(2013年08月16日公開)

Profile

堅田喜三久さん
歌舞伎長唄囃子の第一人者。本名安倍康仁。叔父三世堅田喜惣治に学び、堅田康仁を経て昭和28(1953)年に喜三久。その後はほとんど独学で囃子を学び、鳴り物のマルチ・プレーヤーとして活躍。平成11(1999)年重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。
歌舞伎長唄の囃子だけではなく、現代音楽、ジャズ、オーケストラのほかあらゆる三味線音楽で鳴り物が必要とされる場合にこの人の名前を見ないことはない。またアメリカ、カリフォルニア大学ロサンゼルス校U.C.L.Aで囃子の講師をつとめたのをきっかけに昭和57(1982)年「アメリカ堅田会」を結成するなど、海外での活動にもすばらしいものがある。芸術選奨文部大臣賞をはじめ受賞多数。NHK邦楽技能者育成会講師もつとめる。

左効きが修行の短縮とジャンルを越えた演奏を実現した

043_pho01.jpg ――長唄囃子方の名門に生まれ、堅田先生は小さな頃から鼓を手にして修行をされたのですか?
僕は九世 望月太左衛門の次男に生まれ、叔父は堅田喜惣治という家でしたが、15歳までプロの漫画家になろうと必死に勉強していました。だから長唄囃子方の修業に入ったのは16歳からと他の人と比べてだいぶ遅かったですね。すでに兄が望月を継ぐことになっていたので、僕は兄について修業しました。

――さぞ大変な修業だったのでしょうね?
僕は実は左利きなのです。兄の前で鼓を最初に手にした時になんと鼓を左肩に乗せてしまい、絶対にありえない打ち方だと笑われました(笑)。ギターなどの洋楽の楽器では左利き用はありますが、邦楽では三味線なんかもありませんね。

――左利きだと不利なのですか?
鼓は右手で打って左手で操作します。右手で打つ方が大変だと皆さん思っていますが、実は鼓は左手の操作の方が難しい。右手で打った瞬間に左手を締め付けたり、緩めたり、左手の操作によって音色が自在に変化します。この操作だけで1オクターブ以上の音を出せます。もともと左利きですから、当たり前ですが、左手を自在に操れます。これは有利でしたよ。僕は左利きだったお陰で人が修行する半分の時間で高いレベルに辿り着き、やがては追い抜くことができました。

――ジャズなどとのコラボレーションも素晴らしいですよね。
僕は若い頃は相当な悪ガキで、とにかく人がやらないことをやり、人ができないことをやってのけるのに生き甲斐を感じてました(笑)。鼓一つでいろんなジャンルのところに飛び込んでは道場荒らしのようなことをやっていた。ジャズの『TAKE FIVE』などの演奏では左手の操作がよほど早くなくては絶対に演奏できません。左利きの僕しかできない。ただし、鼓の皮を相当痛めるのと、何百年にも渡って伝わっている品格の高い楽器ですから、僕のようなことをやる人間はそうはいませんけどね(笑)。鼓で遊ぶっていうことをいろいろなジャンルの演奏家と舞台を共にすることで体験しましたね。

かけ声と息の大切さについて

043_pho02.jpg ――お囃子にはかけ声がありますが、これにはどんな意味があるのですか?
かけ声というのは息のことです。調子とか呼吸とか間合いとか、合気道の気のようなものです。かけ声を入れながら凄味を出したり、調和させたり、かけ声によって舞台をリードし作り上げていくものです。

――囃子方にとっても舞台全体にとってもかけ声は大切なものなのですね。
そうです。極めて重要な役割なのですが、邦楽人のわれわれの社会ではなぜか、かけ声を研究しろって言いません。楽器の指導、間の指導など他は全部するのに不思議です。声は指紋と同じでその人にしかない声だから強制できないっていう意味なのでしょうね。

――洋楽ではかけ声ってあまり馴染みがありませんね。
僕は洋楽のさまざまなジャンルの方々と仕事をしましたが、作曲家で指揮者の山本直純さんはかけ声の重要さをわかっていました。あるレコーディングの時に僕がどうしても都合が付かずに仲間に代わりに行ってもらいました。これをわれわれの業界では『トラを送る』って言います。レコーディングが終わって直純さんから電話がかかってきて「この間のトラだけど、譜面に忠実、音も良い、間も良い、技術的なことは申し分ない。でもかけ声だけがダメだね」って言われた。

――力強さが足りなかったのでしょうか?
そうです。腹から息を出さずに喉から声を出していたのと、かけ声が調和していなかったのでしょうね。邦楽人が見抜かないことを直純さんは見抜いていた。これは油断できない(笑)。囃子方の舞台の時は是非、かけ声にも注目して聴いてもらうと一層演奏の楽しさが膨らむと思います。

堅田流後継者育成とお噺子の世界への広がり

043_pho03.jpg ――長唄囃子方の後継者の育成についてはどんなことをお考えですか?
僕みたいな異端児がよくも人間国宝に認定されたと思うのですが、人間国宝の条件の一つがプロの後継者を作ることなのです。僕は18歳のときから出稽古をはじめて、20代のときには東京を中心に北は北海道から南は九州、そしてロスアンゼルスにも稽古場があり、弟子に稽古してました。

――積極的に後継者を育てていたのですね。
もうとにかく20年前は弟子の稽古の毎日でしたね。でもふと考えたら、弟子の稽古や人間関係に追われて自分の演奏にかける時間がない。これでは本末転倒だと思って、ぱっと全部稽古場を閉鎖しました。僕はとにかく自分の舞台に全身全霊をかけ、それを観たり聴いたりしてもらいたい。そして僕と一緒に舞台に上がることで気づき学んで欲しいと思っています。これが僕なりの後継者育成です。

――海外での公演も精力的ですよね。
実は人間国宝の授与式のときに天皇陛下直々にお言葉をいただきました。「お囃子を世界にアピールして下さい」と。天皇陛下が椅子の背から身を乗り出して仰って下さった。よ〜しやってやる。腹を決めた。明くる年から陛下とのお約束通り、ロスアンゼルスを皮切りに世界各国を演奏して回っています。

――海外での反応はいかがですか?
打楽器は最も原始的な楽器でどこの国でも馴染みがあります。アメリカ、ヨーロッパはもちろん、アジアでも感動して聴いてもらえます。お囃子を通して日本の文化芸術を海外にアピールして行けたら素晴らしいことだと思います。

――最後にCPRAの活動について一言お願い致します。
僕は怪談などのお囃子が大好きで、若い時に『日本の幽霊』というレコードを作りましたが、全く売れなかった(笑)。でも最近それがCDになって人気があるらしいのです。若者が携帯電話の呼び出し音などにも使っているらしい。これはありがたいこと。邦楽の世界でもこれからますます権利関係や徴収分配などでCPRAのお世話になると思います。今後の活動に期待しています。

――本日はお忙しいところ貴重なお話をありがとうございました。これからも迫力のある息の通った舞台を楽しみにしております。

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